彼女の福音
伍 ― 岡崎女史の事情 ―
「ここ、で間違いないんだね?」
陽平が辺りを見回しながら聞いた。
「確かここらへんだったと思うんだけど……」
「ふ〜ん……あ」
「あ」
同時に二人で見つけた。向こうから歩いてくるのは、智代だった。
「やっほー智代ちゃんおひさしbrぐぼへっ」
陽平が智代に抱きつこうとして、顔面を蹴られた。つま先の鋭い革靴で。
「あ、す、すまない春原。体が本能的に動いて……」
「いや死ぬって」
とりあえず顔にモザイクをかけておこう。うん、そうしよう。
「こんにちは智代」
「杏……」
「どうしたの、何だか会いたくなかった、って顔してるけど?」
「……」
違う。何を言ってるんだあたしは。智代に対して何でそんなに辛辣になるんだ?
友好な感じで話して、それで説明をおとなしく聞くんだったでしょ?
「ねえ智代?」
「……すまないが、ここで会ったことは朋也には言わないでいてくれ」
「……」
「いつか私から話すから。だから」
気がつかないうちに、胸倉を掴んでいた。
「杏……」
「……にいってるのあんた」
もうだめ。止まらない。
「何ふざけたこと言ってるのよあんたは!どうしてよ?何朋也に隠し事してんのよ?本当に何やってるのよ!?」
「私は……」
「あたしはね、あんたのこと尊敬してたんだから。がんばって妻らしくしてるのがわかってたから。だから、あんたなら朋也を幸せにできるって、そう思っていたから!」
あたしは未だに朋也を愛してるんだろうか。だから智代にこんなことを言うんだろうか。
いや、違う。そんなんじゃない。
「いい、智代?あたしはね、あんたらのバカップル振り、見てて嫌じゃなかったのよ?あんたらの惚気が傍迷惑に見えても、あたしはね、応援してたんだから。あたし自身は幸せになれないかもしれないけど、幸せなんて掴めないけど、あんたら夫婦が仲よくしてる限り、愛ってものがあるんだなぁって思っていられたの。わかる?あんたらはね、二人でいるだけで、周りのみんなを元気づけることができるのよ」
自分でも声がしりすぼみになっていくのがわかった。声がゆがむのが、わかった。
「なのに……どうしてよ?事情があるんだったら話せばいいじゃない?落ち度があるんだったら、言ってやればいいじゃない?どうして……」
不意に、肩を掴まれた。
「もうそれぐらいにしとけよ、杏」
「陽平……?」
「ねえ智代ちゃん、これだけはさ、聞かせてくれるかな?」
「……何だ」
「馬鹿らしい質問だからさ、気に障ったら蹴り飛ばさないでくれるとありがたいんだけど」
「いいだろう。何でも聞いてくれ」
「智代ちゃん、岡崎のこと、好きだよね?」
彼女は、一瞬の怯みも迷いもなく、いつもの正々堂々とした顔で言った。
「ああ。私は朋也が好きだ。朋也を愛している。今までも、今も、これからも」
「……そっか。そうだよね」
「ただ、この件は少し……デリケートなんだ。何というか、今は脱皮した蝶の羽みたいな、形はあっても崩れてしまいそうなほどのことなんだ。だから、大丈夫だと思えるまで朋也には黙っていてもらえないだろうか……?」
しばらくの間、何も言わなかった。
「……そうだね。うん。杏、今回は帰ろう」
え?
「何だかさ、こればっかは智代ちゃんに任せるべきだって思うんだ」
「春原……ありがとう」
「お礼なんていいよ。今回は押しかけてごめんね」
すると、急に後ろから声が聞こえた。
「おや、智代さん?」
振り返ると、初老の男性がこちらを怪訝そうに眺めていた。
「大丈夫かい?何だか外が騒がしかったんで来てみたんだけど……」
「あんた、誰?」
陽平が目を細めて聞いた。
「智代ちゃんに、何させてるの?」
「やめろ春原、そういうことじゃないんだ」
「そうね……あなた、智代とどういう関係?」
あたし達がその男に一歩近づいたとたん、男の顔がほころんだ。
「そうか……あなたが春原さんか」
「へ?僕?」
「智代さんからよく聞いているよ。朋也君がいつもお世話になってるね」
「岡崎のことを知ってるの?」
「ああ、知っている。その人は、朋也のことを知っている」
智代が落ち着いて言った。
「この人は岡崎直幸さん。私の義父で、朋也のお父さんだ」
「そう言えば、岡崎は実家のことは話したがらなかったからな」
陽平が辺りをきょろきょろ見回した。直幸さんは台所で、智代と一緒にお茶を淹れている最中なので、初めてくる岡崎家の居間には、あたしと陽平しかいない。
「あんた、ここに一度ぐらいは来たことなかったの?」
「僕と岡崎は、そういう事しなかったからね。寂しい話だけどさ、やっぱり踏み入れるべきじゃない一線ってのがお互いに引いてあって、絶対にそれは越すべきじゃない、って約束してたんだ。それで親友だとか言ってたんだから、笑えるよな」
陽平が寂しげに顔をゆがめた。
「どうかなぁ。親友ってそんなもんでしょ。あたしと椋にだって、隠し事の一つや二つはあるわよ」
「でもさ、杏と椋ちゃんってさ、家族じゃん?何があっても壊れない絆ってのがあるわけだろ?その点、僕と岡崎はそういうのないからさ。そういう絆がある他人ってさ、岡崎にしてみれば智代ちゃんぐらいのもんじゃない」
反論は……できなかった。
結局絆なんてそんなものなんだろうか。あたしも陽平も、朋也のことはわかっていたつもりだった。高校の時なんか、あたしは朋也のすべてを知っていた気になっていた。でも、実は何にも知らないんじゃないか。
やっぱり、陽平の言うように、少し寂しい。
「しっかしとんだ勘違いだね」
「そうね……馬鹿みたい」
「かもね。でも、そうやって友達のために馬鹿になるのもさ、いいんじゃない?少なくとも利口ぶって何もしないよりはさ」
「……そうね」
「でもま、ちゃんと謝ろう、二人でさ」
「……うん」
「茶が入ったぞ」
智代がお盆を持ってやってきた。スーツを着ながらも、智代は畳の上をすっ、すっ、と滑るように歩いている。和風料理店の仲居さん達がやるあれだ。そして畳の縁も踏まずに歩いている。むむっ、なかなかやるわね。
「うっひょう、智代ちゃんが淹れてくれたお茶だ!ばんざーい!」
「いや、私は食器を用意しただけだ。お茶は直幸さんが自分で淹れたいとおっしゃってくれた」
がくぅっと項垂れる陽平。
「しかし智代さん以外の朋也君のお友達なんて、初めてだね」
直幸さんが脂じみたメガネを拭きながら微笑んだ。
「申し遅れました。あたし、藤林杏って言います。朋也君とは高校二年の頃からの知り合いです」
「おやおや、朋也君には智代さんがいたのに、こんな美人のお友達もいたなんてなぁ。はっはっは、男冥利に尽きるね」
陽平がぴくりと眉を動かし、智代の顔も一瞬だけだけど強張った。二人とも、あたしに気を遣ってくれたんだろうか。
ありがとう。でも、あたしは大丈夫。
「お〜ほっほ、お上手ですね、直幸さん」
「いやいや。しかし藤林さん、だったかな?朋也君は学校でどういうことをやっていたんだろうか」
「そうですね」
あたしは窓の外を見た。秋の青空が、胸が痛むほどきれいだった。
「そもそもあたしと朋也君が知り合ったきっかけというのがですね……」
結局、昔話に花を咲かせること二時間。岡崎家を出た頃には空は紅に染まっていた。
「朋也は、直幸さんと親子の関係を、中学三年の頃に辞めていた」
岡崎家が見えなくなってから、智代が静かに話し始めた。
「そんな感じじゃないかなって思ってた」
陽平が腕を頭の後ろで組みながら、ぶっきらぼうに言った。
「岡崎の学生時代のこと、全然知らなかっただろ?そりゃあ家には遅くまで帰らず僕の部屋に入り浸ってたんだから、接点らしいのがないのはわかるけどさ、親なんだったらなおさらそこらへん心配して根掘り葉掘り聞くもんじゃないの?大体さ、自分の息子を朋也君、って呼ぶ親がどこにいるわけ?」
智代が辛そうに顔を逸らした。
「朋也も、そう言っていた。あの人は俺をもう息子だと考えていないんだ、どこの世界に自分の息子を君付けする奴がいるんだ、って」
急に智代が立ち止まって、近くにある坂を見上げた。そう言えば、気づいたらあたし達は母校の傍まで歩いていたのだった。
「なあ、多くの人にとって、荒れないですむ理由って、何だと思う?」
唐突な質問だった。
「……何だろうな。恋とか夢中になれるもの、とかかな」
陽平の答えに、智代がクスリと笑った。
「春原も朋也と同じ考え方をするんだな。私は」
家族なんじゃないかと思う、と彼女は語った。
「実は私にも……まあいろいろと事情があったんだ。もう済んだことだから今は話さないでおくけど、家族、または仲間がいれば人は荒れないで済むと思う。家族というのは、そんなに大事なものなんだと思う」
少し冷たい風が、あたしと智代の長い髪をなびかせる。
「だから、朋也が自分から直幸さんに近づいていこうと決めた時、私は誓ったんだ。例え朋也が挫けそうになっても、絶対に支えてやる。建てた橋が壊れそうになったら、私が直してやる。できたばかりの絆は、太くなるまで育んでやる、と」
「だから朋也に嘘をついてまで?何でそんなこと隠さなきゃならないのよ?」
「何分、話し始めたといってもまだぎこちないところがある。でも朋也は、この問題を無理に背負いこもうとしているところがあるんだ。信じてないわけじゃないが、今回は私も陰ながら手伝いたいんだ」
「……だね。岡崎の奴、智代ちゃんに気を遣わせたくないんだろうね」
「妻として夫に隠し事をするのは失格だと思う。でも、それでも私は見てみたいんだ。朋也と直幸さんが笑って話している光景を。それはきっと、私なんかが与えられる光よりも眩しいと思う」
あたしは馬鹿だ。
知ってたはずだった。智代がこういう奴だって。きっといつか彼女は朋也に全部話すだろう。そして朋也が彼女を責めないとは言い切れない。でもそれでも、彼女はすべての非難を受け入れて、それでもって朋也に笑顔を与えようとするんだろう。
なんでこんなすごい奴を信じてあげられなかったんだろう。
「ようやく歩き始めたばかりだとは思う。少し間違えたら、全部が水泡と帰することも、承知だ。でも私は……」
「きっと、うまくいくよ」
陽平が能天気な声で言った。
「春原……」
「岡崎ってさ、始めるのは遅くても、やり出したら簡単には放り投げないしさ」
不意ににかっと笑った。
「あいつ、何だかんだ言ってどんなに遅くても僕の部屋に泊まらずに家に帰ってったからね。他人の家だと思ってたら、そんな風に帰ったりしないよ」
「……ありがとう、春原」
「智代、あたしは……」
謝らなくてはならなかった。しかしそれは智代に遮られた。
「そして杏も、本当にありがとう」
「え?」
「私を叱ってくれてありがとう。怒ってくれてありがとう。そこまで強く心配してくれる仲間なんて、そうざらにはいないからな。私はお前と親友で入れて、運が良かった」
「智代……」
「それとな」
不意に悲しげな眼であたしをじっと見る。
「幸せになれないなんて言うな」
え。
「幸せを掴めないなんて言うな。お前のおかげで、私も朋也も救われているんだ。他人をそこまで思いやれる人が、幸せになれないなんてない。絶対に、絶対にお前は幸せになれる。私が保証する」
だめだ。もう完璧に敗北。こいつには、ほんと敵わない。
しばらく我慢してみたが、結局あたしは智代に抱きついて泣いてしまった。
「今日は、本当にありがとう」
智代を家まで送って行った後、あたしは陽平を駅まで見送った。
まあ、それぐらいの働きはしてくれたしね。
「大変な一日だったね」
「そうね。もうぼろぼろ」
本当にいろんなことがあった日だった。
「岡崎って、本当に果報者だよね」
「そうよね。でもさ、面倒みてる智代もそんな感じじゃない?」
「ははは、だね。智代ちゃんってさ、きっとどこまでも、それこそなんかの拍子で岡崎が記憶失ったりしてもさ、隣で見守って幸せだとか言うんじゃないかな」
「あるある!あり得るわよね!」
「でも僕のことはきっちり忘れてるんだよね!」
「あら、あんた誰だっけ?」
「そこでそう言いますかアナタ!本当に友達がいのない人ですねぇえ!」
こうやって、あたしたちの長い一日は笑い声で終わった。
もしかすると智代が言ったように幸せになれるかもしれないし、もしかするとそんなのないかもしれない。
でも、もしかするとこんな日々を過ごせるのも、まあいいんじゃないかな。